被害者家族に「終わり」はない—那須雪崩事故のその後  その1

子どもが親より先に逝くという「逆縁」は、最大の不幸である。
それが、防げる事故で起きたという理不尽な死ならなおのこと受け入れがたい。
法要の回数を重ねても、周りの子どもたちが成長していっても、亡くなった子どもは戻らない。声も聞こえないし、姿も見えない。
遺族の時間は止まったままで、事故は永遠に「終わった」ことにはならない。

今も多くの人の記憶に残る、那須雪崩事故から4年が経つ。
弔問に来ない #nasu0327 #那須雪崩 https://nasu0327.com/2021/01/6305/

「息子の命を奪った教員たちは、このお盆にも弔問に来てくれません」
「 息子たちの死を悼むこともなく、平穏に教員生活を送り、部活動の顧問すらしています。 なぜこのようなことが許されるのか? 許しがたい現実」
「生徒の命を奪っておきながら弔問にも行かず平然と教壇に立つ教師を見て、生徒たちは何を学べばよいのでしょうか?」

けれどご遺族はこう述べている。「遺族は赦(ゆる)したがっている」と。
「私は息子の命を奪った教員や教育委員会や学校といった組織の罪をいつの日か赦したいと思っています。思っているではなく願っていると言った方が適切かもしれません。おそらく他の遺族も同じような気持ちなのではないかと思います。
すぐには受け入れることはできないかもしれないけれど、精一杯の謝罪の気持ちや事故を繰り返さないという決意を見せていただき、いつかは彼らの謝罪を受け入れて赦すことができる日が来ると信じていました。~しかし、彼らに謝罪の気持ちがないのであれば赦しようがありません」

亡くなった子どもは戻ってこない。けれど、責任を負うべき立場の人たちが、遺族に寄り添う姿勢を持てば、その後の遺族の未来も変わってくる。
無視されたり対立したりして、相手を赦すことができないまま、不信感を抱いて生きてゆくことは、遺族にとって苦悩の加重でしかない。
これは、すべての事故に共通して言えることである。
2021年9月29日




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