「体罰」問題についてのメッセージ

大阪で起こった悲しい事件をきっかけに、最近報道では、「体罰」問題が大きく取り上げられています。
また、女子柔道の日本代表選手に対する監督の「暴力行為」も明らかにされました。

私達は一連の報道の中で「体罰」という言葉が頻繁に使われ、問題が「体罰」として扱われることに大きな違和感を感じます。

体罰とは、親や教師などが、子供や生徒などの自己の管理責任の下にある相手に対し、教育的な名目を持って、肉体的な苦痛を伴う罰を与えることを指します。
すなわち「体罰」とは、悪い事をした子供に対して、それが悪い事であると痛みをもって解らせるということです。
この意味において、体罰を擁護する声が一部の方から起こり、またこの意味において、体罰を肯定する風潮すらあります。

しかし、痛みをもって「悪い事であると解らせる事」が体罰であるなら、「勝たせたいという気持ちが強すぎて手を上げてしまった」「気合いを入れるためだった」「試合に負けた」「指導した通りに出来ない」更には「声が小さい」等々という理由で生徒や選手を殴ったり蹴ったりする行為は、それは「体罰」ではなく「暴力」でしかありません。

そして、絶対的権力を持つ者が弱者に対して行う「暴力」を「虐待」と言います。

スポーツや教育の場においては、指導者、教師と選手、生徒の間に、絶対的支配の関係が成立する事が多々あります。
教師や指導者、監督という絶対的支配力を持つ者が自己の管理下にある相手に対して行う「暴力」は、すなわち「虐待」です。

「体罰」という曖昧な表現がされる事で、体罰擁護の声が起こります。
しかし、いま「体罰」として報道されている多くの事件は、「体罰」ではなく「虐待」であると私達は考えます。

そして、この「虐待」を「熱心な指導の結果」「成長を願っての指導」などという言葉で擁護する事は決して許されることではありません。
それは、虐待を行った親の多くが「躾のつもりだった」と主張する姿勢に通じるものがあります。

「虐待」をする親の多くが、幼少期に自分もまた「虐待」を受けていたとされます。同じように、暴力を伴った稽古を受けて育った指導者が、暴力を伴った指導をします。
このような負の連鎖が延々と続いてきた事が、そして、それを一部の人間が容認、または黙認してきたことが、いま報道されている問題に繋がっていると考えます。

負の連鎖は、断ち切らなければなりません。
すべての指導者、すべての教育者は、大人の理性を持って「虐待」の連鎖を断ち切ってください。




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